Masuk存在しない子ども。
征士郎が放った言葉は、夜が明けても美琴の内側に残っていた。
薄い刃のように胸へ差し込まれ、息をするたび、少しずつ深く沈んでいく。
あのあと、美琴は何も言わず寝室を出た。
華帆は征士郎の腕に抱かれたまま、追いかけてこなかった。征士郎も呼び止めなかった。
廊下の端にある客間へ入り、扉を閉めた。灯りもつけず、窓際の椅子へ腰を下ろしたまま、朝まで一睡もしなかった。
東の空が白み始めると、庭の木々が黒い影から輪郭を取り戻した。葉先に残った雨粒が朝日を受け、窓の向こうで冷たく光っている。
美琴は膝の上へ置いた手を見た。
華帆を打った右手。
頬へ触れた感触は消えていたが、指先にはまだ熱が残っているようだった。
後悔しているのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの瞬間まで華帆を妹だと思おうとしていた何かが、掌とともに振り切られたことだけは分かった。
午前六時を過ぎても、台所へ向かう者はいなかった。
いつもなら、美琴が五時には用意している朝食を待つ家だった。
けれど今朝、美琴は動かなかった。
空腹を訴える喜和子の声も、征士郎が珈琲を求める気配も聞こえない。屋敷全体が、不自然なほど静かだった。
やがて廊下の向こうを、家政婦が慌ただしく行き来し始めた。食器の触れ合う音、湯を沸かす音、喜和子が味付けを咎める声。
自分が立たなくても、朝は来る。
食事は不格好ながら用意され、家族はそれを口にする。
その当たり前の事実を、美琴は四十歳になって初めて知った。
化粧室で顔を洗い、薄く化粧を施す。
鏡に映る頬は青白く、目の下には濃い影が落ちていた。髪を一つにまとめ、濃紺のワンピースへ着替える。征士郎が、妻には地味な色が似合うと言って選んだ服だった。
背中の留め具へ指をかけたまま、美琴は動きを止めた。
これも、彼が決めたものだ。
明るい色は落ち着きがない。
髪を下ろすと若作りに見える。
妻が華美に装えば、取引先に誤解を与える。
これまで、美琴はそれらを夫の助言だと思っていた。
けれど華帆には、明るい色の口紅を選び、華やかな腕時計を与えていた。
美琴はまとめた髪をほどいた。
肩の下まで伸びた黒髪が背へ落ちる。
鏡の中の女はまだ疲れていた。それでも、誰かに決められた形から、ほんの少しだけ離れたように見えた。
客間の電話を取り、昨夜渡された書類に記されていた大学病院の番号を押す。
呼び出し音が三度鳴った。
『はい、東都医科大学附属病院、移植医療支援室でございます』
明るく整った女性の声だった。
「生体肝移植について確認したいことがありまして」
『患者様でしょうか。それとも、提供を検討されているご家族様でしょうか』
提供を検討されている家族。
美琴は受話器を握り直した。
「榊原華帆の姉です。私が提供候補者になっていると、昨夜初めて聞きました」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『お名前を頂戴できますか』
「榊原美琴です」
『生年月日をお願いいたします』
美琴は答えた。
本人確認のため、住所と電話番号も問われる。すべて伝えると、担当者は少し待つよう告げた。
遠くで保留音が流れ始めた。
明るすぎる旋律だった。
美琴は窓の外へ目を向けた。庭師が濡れた石畳を掃いている。竹箒が地面を擦るたび、細かな水滴が跳ねた。
数分後、保留音が止まる。
『お待たせいたしました。榊原美琴様ですね』
「はい」
『記録を確認いたしました。すでに一度、ご家族同席のもとで概要説明をお受けになっています』
美琴の呼吸が止まった。
「説明を受けた?」
『六月十七日に、担当医および移植コーディネーターとの面談記録がございます』
六月十七日。
その日、美琴は一日中、榊原医療開発の事務所にいた。
月末の支払いへ備え、借入先の銀行と資金繰りの打ち合わせをしていた。夕方には取引先から急な条件変更の連絡が入り、帰宅したのは午後十時を過ぎていた。
「私は、その日に病院へ行っていません」
受話器の向こうが静かになった。
『榊原様ご本人ではない、ということでしょうか』
「行っておりません。病院へ伺ったことも、担当の先生とお会いしたこともありません」
『ですが、こちらにはご本人様が来院された記録がございます。受付で本人確認書類も提示されております』
美琴の指が冷たくなった。
「何の書類ですか」
『申し訳ございません。お電話では、詳細な本人確認資料まではお答えできません』
「面談では、私は何と答えたことになっていますか」
声が震えないように、受話器を強く握った。
『少々お待ちください』
再び紙をめくる音がした。
『提供に伴う危険性について説明を受けたうえで、妹様を救うため前向きに検討したいとお話しになった、と記載されております』
「前向きに……」
『また、最終的な意思確認については、ご主人様を交えたうえで進めたいとのご希望があったようです』
「私は、そんな希望を伝えていません」
『榊原様』
担当者の声が低くなった。
『ご本人様に面談の記憶がないのであれば、こちらとしても確認が必要です。ご家族の方へお話しになる前に、改めて当院へお越しいただけますか』
ご家族の方へ話す前に。
その言葉に、美琴は相手も異常を感じているのだと悟った。
「面談記録に、私の署名はありますか」
『ございます』
「筆跡を確認できますか」
『来院時に、所定の手続きのうえで開示を申請していただくことになります』
「分かりました」
『本日いらっしゃいますか』
美琴は客間の扉を見た。
廊下の向こうには、征士郎の気配があるかもしれない。
「伺う前に、もう一つだけ教えてください。私の検体は、いつ病院へ渡されたのでしょうか」
担当者はしばらく答えなかった。
『当院で採取したものではありません。連携する医療法人から、検査資料の一部が提供されています』
「どこの医療法人ですか」
告げられた名称は、榊原医療開発と長年取引のある病院グループだった。
征士郎が役員と親しく、社員の健康診断も委託している。
『榊原様。大変申し上げにくいのですが、正式な提供意思の確認は、必ずご本人様へ行うことになっております。ご本人様が説明を受けていないとおっしゃる以上、現在の手続きをそのまま進めることはできません』
「手術日は、二週間後に決まっていると聞きました」
『手術候補日として施設を確保しているだけです。提供者様の同意なく手術を行うことはありません』
「本当に?」
問いが、思わず口から漏れた。
『はい』
担当者ははっきり答えた。
けれど美琴の胸から不安は消えなかった。
本人が一度も来院していないのに、すでに来院記録がある。
本人が一言も同意していないのに、前向きな提供意思が記録されている。
本人確認書類が提示され、署名まで残されている。
書類の上では、美琴はすでに臓器提供者だった。
電話を切ったあとも、美琴はしばらく受話器を置けなかった。
耳元には、途切れた通話の空虚な音だけが続いている。
やがて廊下から足音が近づいた。
美琴は受話器を戻し、何事もなかったように椅子から立ち上がった。
扉を開けたのは家政婦だった。
「奥様。旦那様から、今日はお部屋で休ませるようにと」
「征士郎さんは?」
「華帆様をお連れして、病院へ向かわれました」
昨日と同じ病院だろうか。
それとも、大学病院で偽りの手続きをさらに進めるつもりなのか。
「車を用意してください」
「ですが、旦那様が――」
「会社へ行きます」
美琴は静かに言った。
「月末の支払いで、確認しなければならないことがあります」
榊原医療開発の本社は、屋敷から車で三十分ほどの場所にあった。
灰色の雲が低く垂れ込め、窓の外には昨夜の雨を含んだ街が流れていく。歩道の水溜まりへ車輪が触れるたび、細かな飛沫が硝子へ散った。
美琴は後部座席で手を重ね、六月十七日の予定を思い出していた。
銀行との面談。
取引先への電話。
午後三時に、征士郎へ支払い延期の相談をした。
その時、征士郎は外出していた。
病院の面談記録には、家族同席とある。
自分の代わりに、誰が座っていたのだろう。
華帆か。
喜和子か。
それとも、美琴に似た別の誰かなのか。
本社へ到着すると、受付の女性が目を見開いた。
「奥様。本日はお越しになると伺っておりませんでした」
「急に確認したい資料ができました」
「専務はご一緒では……」
「一人です」
美琴はそれ以上説明せず、従業員用の通用口へ向かった。
社員たちは彼女を見ると頭を下げた。
誰も美琴を役員とは呼ばない。
肩書を持たない彼女が会社の数字を管理していることを知る者は多かったが、公式の組織図に名前はなかった。
経理部の奥に、美琴が長年使ってきた机がある。
社長室でも、役員室でもない。書類棚と複合機に挟まれた、小さな机だった。
椅子へ座り、パソコンの電源を入れる。
起動音が静かに響いた。
いつもの文字列を入力する。
赤い表示が現れた。
パスワードが正しくありません。
美琴は指を止めた。
もう一度、ゆっくり入力する。
同じ表示。
三度目を試す前に、画面へ警告が出た。
一定回数以上失敗すると、管理者へ通知される。
美琴は手を離した。
内線電話を取り、情報管理部へ連絡する。
「経理端末のパスワードが変更されています。確認してください」
『申し訳ありません、奥様』
若い男性の戸惑った声が返ってきた。
『昨日付で、奥様の利用者権限が停止されております』
「誰の指示ですか」
『専務です』
「理由は?」
『長期療養へ入られるため、情報漏洩を防止する措置と聞いております』
長期療養。
まだ署名もしていない手術のために、すでに美琴の席は閉ざされていた。
「経理システムへの権限も?」
『会計、資金管理、取引先管理を含め、すべて停止されています』
「復旧してください」
『専務の承認が必要です』
「この会社の支払予定表を作成したのは私です。今日中に確認しなければ、来月の資金繰りに影響が出ます」
『それでも、私の判断では……』
「分かりました」
美琴は受話器を置いた。
経理部の社員たちは、聞こえないふりをしていた。紙をめくる手だけが、不自然に速い。
隣の机にいた女性が、周囲を見回してから小声で言った。
「奥様。昨日、専務がこちらへいらっしゃいました」
「何をしていましたか」
「奥様の机の書類を、総務と倉庫へ移すようにと。療養中は不要になるから、とおっしゃって」
「どの倉庫ですか」
「地下の第二保管室です」
美琴は立ち上がった。
机の引き出しを開ける。
筆記具と空の封筒しかない。二十二年間つけ続けた手書きの資金繰り帳も、取引先との覚書も、すべて消えていた。
「教えてくれて、ありがとう」
社員へ告げ、地下へ向かう。
階段を下りるにつれ、空気が冷たくなった。
第二保管室は、古い契約書や廃棄前の帳簿を置く場所だった。金属製の扉を開けると、湿った紙と埃の匂いが押し寄せる。
天井の蛍光灯が何度か明滅し、遅れて点いた。
棚には年度ごとに箱が並んでいる。
美琴の机から運ばれた書類は、入口近くの台車へ無造作に積まれていた。不要品と記された紙が貼られ、いずれ処分されることになっている。
美琴は箱を一つずつ開いた。
取引先別の支払予定表。
借入金の返済計画。
赤字を埋めるために、何度も組み直した資金繰り表。
どの紙にも、美琴の名は記されていない。
作成者欄には征士郎か、経理部長の名がある。
美琴は紙の端へ指を滑らせた。
自分の字で書かれた数字なのに、自分が存在した証拠だけがなかった。
箱の底に、見覚えのない茶封筒が混じっていた。
封筒は古く、角が黄ばんでいる。
表には手書きで、桐生宗一郎令嬢身辺調査、と記されていた。
美琴の父の名。
胸がざわめく。
封を開くと、二十二年前の日付が記された報告書が現れた。
調査対象、桐生美琴。
当時十七歳。
家族構成。
通学先。
交友関係。
既往歴。
父・宗一郎が所有する会社の株式数、不動産、預金、関連会社への出資状況。
美琴は息を詰めた。
自分が征士郎と結婚するより前に作られたものだった。
頁をめくる。
宗一郎の会社が資金難に陥った経緯。取引停止を通告した企業。担保へ入っている土地。美琴が将来相続する可能性のある資産。
さらに、聞いたことのない信託会社の名称があった。
設定者、桐生宗一郎。
受益者、桐生美琴。
詳細は秘匿。
管理権移行条件については別途確認を要する。
「信託……」
美琴は小さく呟いた。
父から聞かされたことはない。
征士郎からも、一度も。
報告書の後半には、美琴の健康状態が記されていた。
血液型。
身長。
体重。
幼少期の病歴。
健康であり、将来的な妊娠および出産に大きな問題は認められないとの所見。
けれど、臓器移植に関する記述はなかった。
当然だった。
二十二年前、華帆はまだ生まれていない。
征士郎が美琴へ近づいた時、華帆の病気も、肝臓の提供も存在していなかった。
美琴は最後の頁を開いた。
報告目的。
その下に、機械的な文字が並んでいる。
婚姻による資産および議決権の長期管理。
視界が狭くなった。
蛍光灯の光が、急に白く強く感じられる。
十八歳の美琴へ、征士郎は言った。
私と結婚すれば、父上の会社を守れる。
従業員も、取引先も救える。
君が九条家の男と関わり続ければ、会社は完全に潰される。
あの頃、美琴には確かめる手段がなかった。
病床の父は会話もままならず、会社の幹部たちは征士郎だけが救いだと言った。
冬真へ連絡を取ろうとしても、電話はつながらなかった。手紙も戻ってきた。
美琴は父と会社を守るため、自分の恋を捨てた。
征士郎は、そんな美琴を救ったのではない。
調べていた。
財産を。
株式を。
父が娘へ残そうとしていたものを。
美琴は報告書を握り締めた。
紙の端が掌へ食い込む。
棚の奥に、同じ調査会社の名が記された新しい箱があった。
日付は三年前。
華帆が美琴の前へ現れた年だった。
蓋を開ける。
中には医療法人から送られた検査資料が綴じられていた。
榊原華帆の肝機能検査。
慢性肝疾患。
将来的に移植が必要となる可能性。
親族間における提供候補者の抽出。
美琴は頁をめくる指を速めた。
その中に、自分の名を見つけた。
榊原美琴。
健康診断時採取検体を用いた肝機能評価。
血液型、体格、既往歴を踏まえ、将来的な生体肝移植における提供候補となり得る。
本人への告知は不要。
検体利用については、所属法人の包括的健康管理同意に含まれるものとして処理。
美琴の手が震えた。
三年前。
華帆を屋敷へ迎えた直後から、征士郎はすでに美琴の身体を調べていた。
食事に気をつけるようになったのも。
酒を控えるよう言ったのも。
市販薬を飲む前に必ず相談しろと命じたのも。
妻の健康を心配していたからではない。
必要な時に、傷のない肝臓を差し出させるためだった。
美琴は二十二年前の報告書と、三年前の医療資料を床へ並べた。
古い紙と新しい紙。
その間に、美琴が妻として生きた年月がある。
征士郎は最初から、臓器を狙っていたのではなかった。
最初は財産だった。
父の会社と株式を手に入れるため、十八歳の美琴を妻にした。
次は労働力だった。
役職も報酬も与えず、家を切り盛りさせ、会社の経理と資金繰りを担わせた。
そして最後には、身体まで利用しようとしている。
美琴の中で、二十二年間の出来事が一本の線につながった。
守られていたのではない。
愛されていたのでもない。
利用価値を失わないよう、管理されていたのだ。
棚の向こうで、金属が擦れる音がした。
美琴は顔を上げた。
地下へ続く階段から、ゆっくりと足音が下りてくる。
一段。
また一段。
誰かが第二保管室へ近づいていた。
美琴は二冊の資料を胸へ抱き、静かに立ち上がった。
榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方
美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも
離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在
久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も
ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴
筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり